お金とは?
もともと私は、会社員として二十数年働いていたのですが、その間お金と給料という概念はイコールでした。
お金は苦しく辛い労働の対価として月に一度、会社から支払われるものであり、来月の給料のために苦しく辛い労働を行うことを定年退職する60歳までやって、それでも安定した生活が困難な状況だったら再就職をしなければならないこと、それが私ににとってのお金を稼ぐということでした。
ですから会社員を辞めたいけど、お金のために辞められないという状態が続いていました。
しかしある日、マイナンバー制度施工の話を聞いて、今まで自分の家族が協力し合ってコツコツ貯めてきた自分の預貯金や収入が全て丸裸にされ政府に完全管理されることを危険だと思い、今までお金について真剣に考えたことがなかったことに気づき、そもそもお金って何だろう??と考え始めました。
給料のおかけで生活に不自由しているわけでなかったのですが、お金のことで不自由な生き方をしていると思うようになってきたのです。
もし、お金のことを(敵のことを)知ることで、もう少し自由な生き方ができる可能性があるならば考えてみても悪くない、そう考えたのです。
『お金』とは何でしょうか?
このことを考えるうえで、『お金』に関する問いを2つに分けて設定しておくことが重要です。
一つ目は、『お金そのもの』について。
二つ目は、『お金を稼ぐ』について。
『お金を稼ぐ』ためには、稼ぐ対象のお金自体が何かを理解しておかなくてはなりません。
しかし、往々にして『お金を稼ぐこと』にだけ頭を使い『お金そのもの』を理解しようとしなかったために、
『お金』の実態が見えずひどく不自由な考え方になりがちです。
狩りに例えるなら、狩る獲物によってその方法は全く異なる訳ですから、
”何を”狩りたいのかを明確にしなければ、”どのように”狩るかを理解することはできないということになります。
これを読んでいるあなたは、何を狩りたいでしょうか?
そのために、少しずつ、一緒に考えていければと思います。
まずは『お金そのもの』について考えることにしたいと思います。
経済学を学んできた方は聞いたことがある話かもしれませんが、まずはこんな話があるので読んでください。
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だんご三兄弟や、ピタゴラスイッチの生みの親として有名な佐藤雅彦さんという方がおられます。
最近は現代芸術もされているようですが、もともとは広告代理店で働いておられた方の話です。
佐藤さんが小学校のころ牛乳瓶の蓋(紙でできたもの)これをコレクションすることがクラス中で流行りはじめたそうです。あるクラスで始まり、それは最初は蓋の数、何枚持っているか、ということが一種の競技のように生徒間で争われ、次第に蓋のデザインや希少性も争われるようになったそうです。
やがて、牛乳瓶の蓋は、各生徒がビニール袋いっぱいに集めるようになりました。さらにこの現象はエスカレートし、「掃除当番の代わりになってくれたら、この蓋を君にあげる」と、一種の通貨のような働きまで持ち始めたそうです。
面白いのは、こうした一種の流行が、ある日突然終わったことです。
そのきっかけは、当時のクラスの転校生のひとりが、知り合いの牛乳配達屋さんにお願いをして、これまでの生徒たちの規模を遥かに超えた蓋をもらってきたことだったそうです。 これまで、必死に蓋を集めていたのが、突如ばからしくなり、皆急に醒め、なんとなく蓋に熱中していること自体が恥ずかしいことのように思えてきたそうです。
その日以来、蓋が持っていた不思議な価値は消えてなくなり、やがて皆、ごみ箱に捨てられてしまったと言っておられました。
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さて、この話ですが、あなたも幼少期に似たような経験をしたことがないでしょうか?
私自身の経験を振り返ると、キン消し(キン肉マン消しゴム)やビックリマンシールがまさにブームで、お金と同等ものによってはそれ以上の価値がありました。
私のちょっと上の世代だとスーパーカー消しゴムやプロ野球カードが大人気だったと聞いています。
日本経済においても1980年代の「バブル」と呼ばれる熱狂的景気も構図が全く同じであることに気づくかもしれません。土地や株は、どんどん価値が上がると世の中の多くの人は思っていました。
つまり、対象が何であれ、「皆がこれを欲しがる」というお互いの暗黙の了解が、その対象の価値を作り出している、という構図です。
似たような話は歴史を紐解けば、いくらでもサンプルを上げることができます。
例えば、人類の最初のバブルと言われることもある、オランダのチューリップ・バブル。これもチューリップという単なる花が、皆にとって価値があるに違いないという暗黙の了解、ないし思い込みによって、チューリップの一株がとんでもない値段になりました。そして、ある日突然、「そんなに価値なくない?」という誰かの気づきにより、バブルが弾けてしまったのです。
ではあなたが毎日汗水垂らしてもらっているお金?これは何でしょうか?
これを考えるために、試しに一度一万円札を手に取ってみてください。
そこには、『日本銀行券』という記載があるのがわかるはずです。
この紙も、基本的には佐藤さんの牛乳瓶の蓋の話と全く同じで、一万円札も単なるインクのついた紙であることには変わりはありません。(ちなみにですがこの話、実はこち亀にも似たような話が書かれています。)
この紙で、「大体これくらいのモノと交換してもらえる」というお互いの『信用』があって始めて、この紙は今『お金』として認識され扱えるようになっているのです。
ただし、ひとつだけ違いがあるとすれば、この紙は単なるクラスメイト間の合意というものだけではなく、日本銀行(日本政府)がこの紙に価値がありますよ、と言ってくれているという点が挙げられます。
私たちは、一万円札の価値を日本が担保してくれていると信用があるから、アメリカをはじめ、イギリスやロシアなど多くの諸外国が一万円札は単なる紙ではなく「お金」として認め決済手段として機能することができるのです。
つまり、言い換えると『お金』とは、『互いに価値があると信用があるモノ』ということができます。
ですので、『お金』とは紙であっても、チューリップであっても、牛乳瓶の蓋のあっても基本的は実はそれほど差異はありません。ただ、『誰が』その価値を保障しているか、という点が大きく違うわけです。
この『保障している誰か』が十分『信用できるひと』である限りにおいて、この『モノ(お金)』の価値は、きちんと担保されるといえるでしょう。
逆に信頼のおけない誰か、が価値があるといっても全くの無駄なわけです。
例えば、私が『日本俺銀行券』という紙を印刷して、100万ドルの価値があるぜ、といっても聞く耳を持つ人はいないでしょう。
逆に、怪しい占い師がそこらの壺を「100万の価値がある」といったとき、僕にとっては意味がないですが、信者の方にとっては意味があるのでしょう、
それは不思議なことに「100万円の価値」のモノになってしまうのです。
ここまでのことをまとめると、お金とは、「『信用』のおける誰かが価値を担保しているモノである」と言うことが分かるかと思います。